〈vol.3〉ヴィラデストワイナリー【小西 超】さんインタビュー

第一線で活躍する先人たちは、どんなターニングポイントを迎えてきたのか。どこのサイトにも掲載されていないであろう、ワイン造りを目指したきっかけとワイナリー設立までの経緯をご紹介します。今回は、ヴィラデストワイナリー  代表取締役社長/栽培醸造責任者の小西 超さんにお話をうかがいました。

 

▲写真左/玉村 豊男さん、右/小西 超さん

 

ヴィラデストワイナリーは、玉村さんと小西さんによって立ち上げられた東御市で最初にできたワイナリー。澄みわたったクリーンな印象のワインは、日本を代表するプレミアムワインと評価されており、「NAGANO WINE」を語る上で欠かせない存在です。ここに至るまでの経緯を、皆さまはご存知ですか。「NAGANO WINE」の歴史を、ひとつ紐解いてみたいと思います。

 

 

大学卒業後、大手酒造メーカーに勤務していた小西さん。入社から3年経過した頃、会社としてワイン業界に参入することになり、東御市でワイン用ブドウを栽培していた玉村 豊男さんとの出会いを果たします。さらに、ウスケボーイズで知られる麻井 宇助さんに指導を依頼します。麻井先生は、現メルシャン株式会社の藤沢工場長や理事を歴任された、ワイン業界においても著名な方ですが、小西さんはその存在を当時は知らなかったんだとか。まだ醸造設備がなかったので、サンクゼールワイナリーに協力を依頼し、玉村さんが栽培したシャルドネ、メルロー、ピノ・ノワールを使って、麻井先生と共にワインを造り始めます。 

名著として有名な『ワインづくりの思想』を執筆中だった麻井先生。仕込みの時期は仕事終わりに毎日のように、飲みに連れて行ってもらったといいますが、食事の席ではいつもビールや焼酎、日本酒などを飲まれていたようです。

 

 

 

当時を思い返して、小西さんはこう話します。「『ワインづくりの思想』に書かれている内容をお酒の席でよく耳にしていた」と。現代日本ワインの父と称される、麻井先生の思想を聞きながらの食事はとても贅沢な時間だったことでしょう。

 「雨が多い日本は、海外のようなワインが造れない」と言われていた時代に逆行するように麻井先生は「決して諦めてはいけない。逃げずにしっかりと向き合えば、日本でも良いワインが必ずできる。」との揺るがないお考えを持ち、その麻井先生のワインづくりの思想を肌で感じてきた小西さん。

思想だけでなく、ワイナリーを清潔に保つことの大切さも麻井先生から学んだといいます。ワイナリーが清潔でないと雑菌が繁殖し、オフフレーバー(※何らかの理由により生じてしまったワインの不快な臭いの総称)の原因になってしまうのです。そのため、麻井先生は汚れた壁を自ら掃除していたんだそうです。お会いしたこともないのに壁を拭いている麻井先生の姿が浮かぶから不思議です。お話を聞いているだけなのに、その勤勉で芯の通ったお人柄を間近に感じているようでした。

 

ヴィラデストワイナリーのワインのクリーンな味わいは、これが原点になっているのではないかと思いますし、ウスケボーイズの劇中でも描かれていますが、麻井先生の日本ワインの造り手を奮い立たせ、背中を押し続けたその影響力はとても大きなものだったのだと思います。直接会ったことのない私でもすごいと感じるのですから、間近で麻井先生を見てきた方達は、きっともっと影響を受けたことでしょう。

 

今日の日本ワイン、そして、NAGANO WINE があるのは、そうした先人の方々が強い志を持ち続け、それを体現し、多くの人々の心を動かし、影響を与え続けてきてくれたから。私が今、ワインの販売という仕事ができていることも皆さまのおかげなのです。 

 

 

 

エッセイストで画家という肩書きを持つ玉村さんは、2013年に出版された『千曲川ワインバレー 新しい農業への視点』という自身の著書で、以下のように綴っています。

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42歳の厄年を迎える春に体調を崩し療養生活を余儀なくされ、人生の後半は土を耕して暮らそうと夫婦で決め、その頃住んでいた軽井沢から一時間で行ける範囲を毎週ふたりでドライブしていました。ある日、南西に向かって開けたなだらかな里山の斜面と、その左右に広がる雑木林のある素晴らしい景色に出会います。その景色を見た瞬間に、「ヴィラデスト」という名前を思いついた。「VILLA DEST/ヴィラデスト」の「EST/エスト」は、ここにあるという意味のラテン語。昔ローマ帝国の貧乏貴族の従者が、美味しいワインを飲める宿を見つけるたびにその扉に「ここに(美味しいワインが)ある」と書き記して後から来る主人に教えたという故事にならい、田舎と都会を繋ぐ拠点の意味を持つ「VILLA/ヴィラ」という言葉と結びつけた。その風景を見た瞬間にこの故事を思い出したということは、どこかで将来を暗示していたのかもしれない。

 

 

玉村さんは、1992年に東御市に移住し、元々は巨峰の産地だった土地を一から開墾してワイン用ブドウを植えます。ワイン用ブドウをこの地に植えたのは、当初自家用ワインを造ることが目的だったそうです。

 

▲畑を開墾する玉村さんの写真(ワイナリーの廊下に展示されています)

 

▲ブドウの苗木の定植のため、支柱立てを行っている様子

 

注釈には、鉄柱の底にコンクリートをはかせる作業から、柱の埋設まで、すべて手作業で行ったと書かれています。現在では、ワイナリー周辺に花やハーブが植えられ、美しい田園のリゾートという言葉がぴったりの景観ですが、ここまで来るのには多くの苦労があったのだと、この写真をみてすごく感じます。

この写真が撮影された頃は、まだワイナリーを設立する予定もなかったといいますが、写真一番右の建築家/萩原白さんの設計管理により12年後にワイナリーが完成することになるのです。

 

 

当時、勤務していた大手酒造メーカーがワイン業界への参入を目指すという会社の方針で、麻井先生や玉村さんの協力のもと、3〜4年に渡り準備を続けてきた小西さんでしたが、ワイナリーを立ち上げる計画が突然中止になってしまいます。

すでに、麻井先生から多くの影響を受けていた小西さんは、「このままでは終われない、やっぱりワインを造りたい」という想いに至り、玉村さんと二人でワイナリーを立ち上げることを決めます。玉村さんの奥様である抄恵子さんの説得にも、小西さんが立ち合われたそうですが、強い志を持って伝えれば、それはしっかりと相手に伝わるものなのだと感じます。

 

会社立ち上げの知識がなかった小西さんは本を買って一から勉強し、資金調達は玉村さんの数ある友人や知り合いの方、金融機関からの融資で賄い、2003年ヴィラデストワイナリーが設立します。

東御市のワイナリーは今では10軒を越え、ワイン用ブドウを栽培するヴィンヤードを含めると20軒近く存在していますが、そのはじまりをつくったのがヴィラデストワイナリーを設立した玉村さんと小西さんなのです。

 

麻井先生はご病気で2002年に亡くなられましたが、生前、麻井先生と玉村さんは、「千曲川沿いがワイン産地になればいい」という夢を共に語られていたそうです。現在、千曲川沿いの地域は〈千曲川ワインバレー〉と呼ばれ、信州が誇る一大ワイン産地へと成長を遂げています。

 

私がすごいなと思ったのは、すごく偉大な師、麻井先生を亡くした翌年にはヴィラデストワイナリーを設立していたということです。恩師の死を乗り越え、そして、その意思を受け継ぎ、前に進んだ小西さんと玉村さんは本当に強い方なんだなと改めて感じます。

 

 

 

 

ヴィラデストワイナリーのワインはこちらからご覧いただけます。

▼ヴィラデストワイナリー商品一覧

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 今回も、最後までお読みいただきありがとうございました!

 

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宮下 綾